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懐旧コンサート②「わたしの願い」(R2.5.3記) [アーカイブ]

コロナ自粛で押し入れの奥で見つけた、昔所属していた混声合唱団のコンサートプログラム。


手書き、ガリ版刷りで、いまにも破れそうなプログラムでした。


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YouTubeで綴る、懐旧コンサート、第2回は、高田三郎作曲、高野喜久雄作曲 の「わたしの願い」です。


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この曲は、1961年(昭和36年)度文化庁芸術祭参加作品として、NHKの委嘱により混声合唱版が作曲され、同年の芸術祭賞を受賞したもの,


高田が書いた初の混声合唱曲で、楽曲編成は、全2楽章である。


  1。いま わたしがほしいのは


「いま わたしがほしいのは 何も 見てない眼 何も 聞いていない耳 おしだまる口だ」と始まり、詩はパラドックス(逆説)が続く。「演出者の おのぞみどおりの ものになるなってやる」でffの頂点に達するまで登り、一筋の長いクレッシェンドの持続に合唱が持っていくが、直後バリトンソロは「わたしは やけのやんぱちではない」と静かに否定する。「いま はっきりと わたしは言える 言えるのだ」と結びに入っていく。

  2.雲雀にかわれ


高田は「ぼくはフーガを書いたんです。最後の『まことに高きものの名を呼びかわしつつひた舞い上がる雲雀にかわれ』というテクストによって。次から次に舞い上がっていく雲雀はフーガにピッタリなんですよ。高き者の名とは、ぼくにとっては神の名です。あるいは絶対者、超越者の名を呼びかわしながらです。」と語っている。
また、後年「ひとつのテーマ(テクストからいえば、ひとつのことば)にだけよって音楽を書いていく最も見事な方法はフーガである。私は前期の四行の、前の二行を主題とし、後ろの二行を対主題としてフーガを書いた。そして、これらの旋律は、これらの希望に満ち満ちたことばを刻一刻より一層高く舞い上がらせ続けながら、途中のAndante assaiとModeratoの四十五秒も入れて全部で四分間歌い続け、高揚し続けたのであった。だから、この昔からの手法でラヴェルも、メシアンもフーガを書いているのだと思うのである。」とも語っている。  
( 以上 ウイキペデイアより抜粋 )




「今 わたしがほしいのは」

いま わたしがほしいのは
何も 見てない眼
何も 聞いていない耳
おしだまる口だ
抱けない腕と 立てない脚
凡て
わたしを わたしでなくするものが 必要だ
心は
打ち上げられた 唯の巻貝であってほしい
脚はなぎさ 髪は草
愛は泥であってほしい
樹々になる 雲になる 杭になる 牛になる
岩になる 蝶になる 
わたしは 何んにでもなる
わたしは わたしをすてる
わたしは みれんなんかない
強いものは 弱いものを うちのめしてしまえ
したい奴は 何んだってすればよい
ねずみになる 火だるまになる
灰になる
演出者の おのぞみどおりの ものになる
なってやる

わたしは やけのやんぱちではない
わたしは 逃げ出したのでもない
枝よ わたしの友だち
砂よ わたしの友だち
鴫よ わたしの友だち
呼べば どこにでも わたしの友だちはいる
けれども
かけがえのない友は いま美しく
狂って 病院のベッドの上に
いる

「水よ きれいな水が
流れているのよ」
ベッドの脚を なでながら
やさしくいいはる ひとりの友がいる

狂った友よ 美しく
そして正しく 狂った友よ

いま
はっきりと わたしは言える
言えるのだ
あなたの両手は 正しくて
わたしの両手は 滅びていたと
いま
はっきりと わたしは言える
言えるのだ

あなたのほしがった ものの凡てを
そっくりそのまま わたしもほしい
ほしがりながら わたしも生きると





「雲雀にかわれ」

何故 何故かと問うことをせず
ただ ひたすらに 坐りつづけて
ただ ひたすらに 受けいれる
つよいこころ うつろなこころ
自在のこころ
根源(みなもと)を 身ごもるこころ
…あなたが こがれたものの凡てよ

「せせらぎ」
せせらぎ! とあなたが言えば
たちまちに
凡てのものは せせらぎにかわる
坐ったままで
あなたもまた せせらぎにかわるのだ

何故 何故かと問うことをせず
いまこそ わたしも試みる
「雲雀!」
ひばりだと わたしがとなえれば
ゆくりなく
馬も日傘も つぶても枯葉も
おお
凡て 凡てのものは
雲雀にかわれ
この にぎるわたしのこぶしも
雲雀にかわれ

まことに
高きものの名を 呼びかわしつつ
ひた舞い上がる
雲雀にかわれ




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