富山県域の呼称の変遷④(終)(R4.3.21記) [歴史]
明治5年に現在の「富山県」域が「新川県」と呼称され、県庁が富山に移されて間もない、明治9年。
今度は第2次府県統合で、「新川県」が「石川県」に編入され、大「石川県」が誕生。「新川県」は消滅してしまいます。
大「石川県」の議会では、越中と加賀・能登の議員の主張が真っ向から対立。
越中では次第に石川県からの分離、「分県運動」が起こり、ついに明治16年、大「石川県」から分離して「富山県」が誕生しました。
「越の国(高志国)」→「越中国」→「加賀藩」→「富山藩」→「新川県」→「石川県」と変遷してきた我が「富山県」の県域の呼称ですが、漸く明治16年に現在の「富山県」という呼称になり、現在に至っています。
今回、旧友F君の「富山県の成り立ち」と題する寄稿文の記述に沿って、「富山県」の県域の呼称の変遷を辿ってみましたが、初めて知ることが多く、大変勉強になりました。
F君、有難うございました。
(終)
富山県域の呼称の変遷③(R4.3.20記) [歴史]
明治4年7月。廃藩置県により、「富山藩」が「富山県」となりました。
しかし、同年11月、第1次府県統合で「富山県」は消滅。
「新川県」が設置され県庁は「魚津」に置かれました。(「富山県」の呼称は僅か4ケ月の命でした)
この時、射水郡が七尾県に移ります。
また、「能登国」「加賀国」の国域の呼称が、明治4年には「七尾県」「金沢県」に改称されました。
翌明治5年、射水郡が新川県に編入され、県庁が魚津から富山に移り、現在の「富山県」域が「新川県」として措置されました。
県庁が富山に移っても、県名は「新川県」で「富山」の呼称は戻りませんでした。
またこの時、「七尾県」「金沢県」は「石川県」になりました。
そして、明治9年4月。第2次府県統合で「新川県」は「石川県」へと編入され、大「石川県」が誕生し、「新川県」は消滅してしまいました。
「富山県」の呼称は、一体何処へ・・・?
(続く)
富山県域の呼称の変遷②(R4.3.19記) [歴史]
戦国時代1585年、越中に攻め込んだ、秀吉・前田利家軍が佐々成政に勝利し、利家は越中国4郡(新川、婦負、射水、礪波)を任され、1598年加賀藩2代藩主利長は加賀、越中、能登を治め、「加賀藩」が生まれました。
加賀藩そして富山藩誕生。
1639年.加賀藩3代藩主、利常が隠居するにあたり富山藩(10万石)と大聖寺藩(7万石)を分藩。1660年に、婦負郡と新川郡の一部を合わせた富山藩領が確定しました。
ここで、初めて「富山」の呼称が現れます。
現在の「富山県」域の呼称は、「越の国(高志国)」→「越中国」→「加賀藩」と変遷し、加賀藩の分藩により、「富山藩」という形で「富山」の呼称が生まれました。
ちなみに、「富山」の地名の由来は、WEBの「語源由来辞典」には、以下のように記されています。
富山の地名の由来には、「呉羽丘陵(くれはきゅうりょう)」が現在の高岡市から見て外側にあったことから「外山(とやま)」と呼ばれ、縁起の良い「富山」にしたとする説。
多くの山が連なり「富める山の国」の意味からとする説。
この地方は元々「藤居山(ふじいやま)」と呼ばれていたが、「富山寺(ふせんでら)」があったことから「富山」と呼ばれるようになったなど諸説ある。
地形用語の「と」は高くなった所を表すため、「と山」は高くなったところを反復して表した地名で、縁起良くするため「と」に「富」が当てられたとも考えられる。
(続く)
富山県域の呼称の変遷①(R4.3.18記) [歴史]
先日、旧友が地域誌「富山県人」誌2月号に寄稿した、「富山県の成り立ち」と題する小文を読みました。
私は「富山県」出身ですので、大変興味深く読ませてもらいました。
わが故郷「富山県」の「県域」がこれまでどのように呼称されてきたのか、旧友の小文に沿って、その呼称の変遷をまとめてみました。
現在、「富山県」の県域は下図の通りで、「北陸3県」の一県と称されます。
古来、富山県は、越国(こしのくに・高志国)と呼ばれる地域にあり、この「越の国」は、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域(下図の朱色部分)の、大化の改新以前の日本古代における呼称でした。
7世紀末に越前(加賀、能登を含む)越中(上越、中越を含む)越後(下越以北)に3分割され、
その後741年、越中に能登が併合されました。
757年には、越前、能登、越中、越後に分国になりました。
このころには「高志」の表記は使われなくなり「越」の字に統一されたようです。1984(H.26.2.27記) [歴史]
今日の日経新聞・朝刊。
裏面の「文化欄」の新コラム記事「世界を変えた広告・十選」。
第1回は「アップル」です。
まずはそのコラム記事をご覧ください。画像をクリックすると拡大してご覧になれます。
1984年、アップルのパソコン、マッキントッシュが発売された頃、自分はNECの「PC-6001」とか日立のPC,「ベーシックマスターレベル3」などの8ビットマシーンでベーシック言語を学んでいました。
10 INPUT "A=”;A 20 INPUT "B=";B 30 INPUT "C=";C 40 D=A*B/C 50 PRINT”D=";D 60 GOTO 10
こんな単純なプログラム言語でも、結構役に立ち、繰り返し計算や予測計算など、電卓で何度もキーを叩かないといけないわずらわしイ計算業務や、ホールソートカードを使ったり、感光複写したコピーをハサミで切り離して並べ替えをするというようなうんざりする事務作業から解放される喜びは、正に「事務作業の革命」といった感じで、ベーシック言語によるプログラム作成に熱中していた記憶があります。
いまや、伝説の人になってしまった、アップルの創業者、S・ジョブズ。
「マック」の発売に際して、「1984」なるTV・CMが放映されたことは知りませんでした。
今日の日経のコラム記事には、それが「世界でもっとも有名なテレビCM」なのだ、と書いてあります。
早速WEBで検索してみたら、すぐにヒットしました。どうぞご覧下さい。
う~ん、ハンマーを持ってスクリーンに駆け寄る女性が、「アップル」で、スクリーンの独裁者らしき人物が「IBM」、という図式なのですね。
それにしても、英会話音痴の自分には、末尾の英文しか判読できません。
「1月24日、Apple ComputerよりMachintosh発売。
あなたは1984年が小説“1984”のようにはならないワケを知るでしょう」
アップルの「マック」はIBMを打ち砕く!、という強烈なメッセージ!!
いかにも天才らしい、自信にあふれたCMですね!
あらためてWEBを検索しましたら、このCMを発表する、S・ジョブズの映像がヒットしました。
「CM」の部分はダブりますが是非ご覧下さい。
S・ジョブズのスピーチ内容を訳した記事(一部略)もゲットできました。
1958年。
IBMはゼログラフィを発明した小さな会社の買収を断り、その2年後、Zerox誕生。IBMはそれ以降今でも後悔している。60年代後半。
Digital Equipment Corporation(DEC)がmini computerを開発。
IBMは、「それでは本格的なコンピューター機能ができない、IBMのビジネスには必要ない」と言った。
その後、DECは急速な成長を遂げ、ようやくIBMはmini computer市場に参入。70年代後半。
Appleが史上始めて”Apple II”、パーソナルコンピューターを開発。
IBMは再び、「それでは本格的なコンピューター機能ができない、彼らのビジネスには必要ない」と言った。1981年。
Apple II が世界一有名なコンピューターに成長、Appleもアメリカ史上一成長の早い企業に。
この年IBMがようやく、PCとして市場に参入。そして今年、1984年。
IBMは業界全てを占領したがっている。
ディーラーは今ではIBMの言いなりで恐怖さえ憶えているようだ。
“ビッグブルー”はコンピューター業界、情報の時代を占領してしまうのか。
1984年について、ジョージ・オーウェルが言っている事は正しいのか?!”
と言ってCMがスタートします。
いや~!! S・ジョブズ、若いですね~!28歳だったそうです。
30年前の「歴史的なTV・CM」
もちろん歴史に名をとどめるのは、「CM」ではなく、アップルのPC「マック」ですよね!、
当時、もしこのCMを見る機会があったら、現在の自分のPCは、マックだったかも知れません。