富山県域の呼称の変遷②(R4.3.19記) [歴史]
戦国時代1585年、越中に攻め込んだ、秀吉・前田利家軍が佐々成政に勝利し、利家は越中国4郡(新川、婦負、射水、礪波)を任され、1598年加賀藩2代藩主利長は加賀、越中、能登を治め、「加賀藩」が生まれました。
加賀藩そして富山藩誕生。
1639年.加賀藩3代藩主、利常が隠居するにあたり富山藩(10万石)と大聖寺藩(7万石)を分藩。1660年に、婦負郡と新川郡の一部を合わせた富山藩領が確定しました。
ここで、初めて「富山」の呼称が現れます。
現在の「富山県」域の呼称は、「越の国(高志国)」→「越中国」→「加賀藩」と変遷し、加賀藩の分藩により、「富山藩」という形で「富山」の呼称が生まれました。
ちなみに、「富山」の地名の由来は、WEBの「語源由来辞典」には、以下のように記されています。
富山の地名の由来には、「呉羽丘陵(くれはきゅうりょう)」が現在の高岡市から見て外側にあったことから「外山(とやま)」と呼ばれ、縁起の良い「富山」にしたとする説。
多くの山が連なり「富める山の国」の意味からとする説。
この地方は元々「藤居山(ふじいやま)」と呼ばれていたが、「富山寺(ふせんでら)」があったことから「富山」と呼ばれるようになったなど諸説ある。
地形用語の「と」は高くなった所を表すため、「と山」は高くなったところを反復して表した地名で、縁起良くするため「と」に「富」が当てられたとも考えられる。
(続く)
コメント 0